ヴァイオリンとヴァイオリン音楽



(参考メモ)(その2)
ヴァイオリン(Vn)教師の四方山話ーヴァイオリンを教えるとは


(Mr。ビーハイブ楽師の話題メモ帳)

<名指導者とは>

 さる音楽談話例会における話題の中で、「名選手必ずしも名指導者にあらず」と言っていたが、 同じ事が音楽にも言えるのではないかと思う。
 ヴァイオリン(以下、Vn)の世界では、レオポルド・アウアー、エネスコやエルマン等は、一世を風靡した 歴史に残る超一流のソリストであったが、その弟子も一流のソリストに育てている。

   特にレオポルド・アウアーに至っては、弟子にジンバリスト、エルマン、ミルステイン、 ハイフェッツとくれば、これはもう驚きである。・・・歴史的な名ヴァイオリニストがずらりと 並んでいる。日本では江藤俊哉がその範疇に入る様に思われる。
 しかしVn界全体を通して眺めて見た場合、自分自身はソリストとして前者ほど華々しく 脚光を浴びていない人物が、指導者として、超一流のソリストを育てている場合が、意外と多い様に 思われる。
 日本では鈴木鎮一や鷲見三郎がその範疇に入るのではないだろうか!

<ジュリアードのガラミアンとディレイ>

 アメリカではジュリアード音楽院のイワン・ガラミアンやドロシイ・ディレイであるが、共に 素晴らしい名ソリストを数多く育てている。
 ざっとあげてみると次のようになる。

イワン・ガラミアンズーカーマン。渡辺茂人。マイケル・レビン。
パールマン。チョンキョンファ。・・・Etc
ドロシー・ディレイ パールマン。原田孝一郎。竹澤恭子。五嶋みどり。
諏訪内晶子。ギル・シャハム。アン・アキコマイヤーズ。
シュロモ・ミンツ。漆原朝子。チョーリヤン・リン。
チー・ユン。サラチャン。神尾真由子。数住岸子。
前橋汀子。加藤知子。ナイジェル・ケネディ。奥村智弘。・・Etc
(年長の生徒はドロシーがガラミアンの助手を
していたために共通の生徒がいる。)

 このようにして、Vnの指導を受けるのはジュリアードに限る、それもガラミアンや ドロシー・ディレイの指導を受けることが、ヴァイオリニストとしてのステイタスにもなっている ばかりでなく、実際に世界を席巻するソリストが、続々と送り出されている。

 ガラミアンの教育法は古い権威主義と呼ばれていた様に独自の指導法で、誰に対しても同じ方法で 徹底して指導したが、生徒は細部まで、正確に徹底した練習を求められ、テクニックの習得に重点が 置かれていたと言う。
 先生の指示する弓使い、指使いに従わない生徒には容赦をすることがなかった。
 特にガラミアンは運弓の名手と言われたカペーの弟子であっただけに運弓にはうるさく、後に ガラミアンのトレードマークになるが、大きく弓を使いいい音を出すことを徹底して訓練した。
   後にガラミアンは石ころでも立派に磨き上げて、ヴァイオリニストを創ることが出来たと評されて いる。


(左)1977年マンハッタンレッスン室のイヴァン・ガラミアン(写真ピーター・シャフ)
(右)1986年15才の五嶋みどりとドロシー・ディレイ(写真チャールス・アポット)

 これに対してドロシー・ディレイには固執する教授法はない。
 機械的に反復練習ばかりをさせる事はなく、この生徒のどこに問題があるのかを並み外れた洞察力で もって見い出す事に重点を置き、その生徒に必要なものは何かを的確に指摘した。
 そして生徒と徹底的に話し合い、やがては生徒自身が問題点を見つけ出せるところまで指導すると 言ったものである。
 また生徒の良い点は徹底して褒めて褒めて伸ばしていくと言う教育法をとった。従って生徒は気が 付かない間に問題点を克服し、その子が知らない間に弾けなかったところが、いつの間にか弾けている と言う具合であった。
 従ってドロシイの生徒は画一的な教育法でないため、自分に合った様に、自由に成長していった。

 話はそれるが、かつて渋谷天外が藤山寛美を育てるとき、欠点はさておき褒めて、褒めて一流の 芸人に育て上げた教育法に似た感じがするが、しかしその生徒の数、レヴェルを考えるとき、 ドロシー・ディレイは実に天才的な指導者であったと言わざるを得ない。
 ただこれだけ優れた有名な指導者になると、教えを乞う生徒も莫大な数になり、そのいずれもを 平等にレッスンをすることは難しく、やはり才能のある生徒に重点を置かざるを得ないと言う悩みは あったようである。
 そのためか、単に一度か二度レッスンを受けたとか、公開レッスンに参加をしただけで、 ドロシー・ディレイに師事をしたと言う人がいるそうである。
 これはドロシーもよく知っていたが、その生徒がマネージャーとの交渉とか、後々の仕事がうまく 行くのならばと言うことで、苦笑いしながらも黙認する事があったと言う。

<ヴァイオリン(Vn)教師の逸話二題>

 これについて面白い話を二つ。

 その一つは、地下鉄の駅の入り口でいつもVnを弾く、いわばホームレスがいた。足下には 「投げ銭」をもらうためにVnのケースを開けたままで置いてある。その傍をラヴエルが 通りかかり、
「こんな下手な演奏は今まで聞いたことがない、全くひどくて話にならん」
と通り過ぎた。
 次の日またラヴェルが通りかかったら、今度はVnケースの横に「ラヴェルに師事」と 書いてあったと言う。

   もう一つは、ある時ドロシー・ディレイが飛行機に乗っているとき、Vnを抱えた学生が 乗り込んでディレイの席のそばを通った。
 「まあVnを習ってらっしゃるの、すてきね〜、先生はどなた?」
と尋ねたところ、その学生は困った顔をしてディレイ先生です、と答えたという。

 これらは笑い話であるが、事実このような話はいくらでもあるようだ。
 日本でも、よくある事と考えられる。単に一度公開講座を受けただけで、誰々先生に師事と演奏会の パンフレットに書いてある。百歩譲ってそれでもよかろうと思うが、聡明な聴衆は決して騙される事は ない。聴衆は良い演奏とそうでないものはちゃんと聞き分けているものである。
 演奏家はそのことを肝に銘ずるべきである。

<参考メモ>


<ドロシー・ディレイ女史逝く>(編集子の追記)

当該ホームページを書き終えた頃、遥か8000km離れた太平洋の向こうで、ディレイ女史は亡く なられた。以下新聞の訃報欄(読売新聞平成14年3月26日夕刊)から転記すると共に、 謹んでご冥福をお祈り申し上げる。
 日本の若手ヴァイオリニストの多くを育てていただき、ひいては日本のVn演奏界に 大いに貢献されたわけで、改めて御礼申し上げねばならない。(平成14年3月26日)

ドロシー・ディレイ(米ジュリアード音楽院Vn教授)
24日、ニューヨーク郊外の自宅で癌で死亡。84歳。
1948年以来ジュリアード音楽院で教え、10歳で渡米した
五嶋みどりさんを個人指導し、世界的バイオリニストに育てた。
98年に勲三等瑞宝章を受章。
<筆者の追悼メモ>

<ドロシイ・ディレイの訃報についての情報>(平成14年3月26日)
 筆者としてもかなりの精神的な衝撃である。何しろ次のような多数の世界でトップクラスの
ヴァイオリニストを育てた人である。

  パールマン。原田孝一郎。竹澤恭子。五嶋みどり。 諏訪内晶子。ギル・シャハム。
 アン・アキコマイヤーズ。シュロモ・ミンツ。 漆原朝子。チョーリヤン・リン。
 チー・ユン。サラチャン。神尾真由子。 数住岸子。前橋汀子。加藤知子。奥村智弘。・・Etc
 

 これからはどうなるのだろうと心配はするが、そこはうまく出来たもので、ドロシーどガラミアンの共通の弟子であり、 両先生共通の秘蔵っ子であったパールマンがいる。

 パールマンはすでに約20年間ブルックリン・カレッジのマスタークラスで教えていた(これは ほとんどの人が知らない)が。
 1998年12月ジュリアード音楽院の教授に就任して、ドロシーの生徒を教え始めた。
 パールマンは自分が今あるのはガラミアン先生をおいて考えられない、と尊敬の念を決して忘れる ことはないが、教授法としては、ドロシイプログラムに沿ったものである。

 ジュリアードの今後は益々安泰と言うものであろう。


 上記寄稿文のキーワードとも云うべき、「レオポルド・アウアー」「ジュリアード音楽学校」の 参考メモを添付する。(編集子の追記)

      
「レオポルド・アウアー」Leopold Auer(1845〜1930)ハンガリーのヴァイオリン奏者
1853〜8才よりブタペスト音楽院にて、リドレー・コーネに師事。
1857〜8ウィーン音楽院にて、ヤコプ・ドントに師事。
1863〜4ハノーファにて、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831〜1907)に 師事。
1864〜6ライプティッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と共演してデビュー。 デュッセルドルフで、コンサートマスターを勤める。
1867ハンブルグで、コンサートマスターを勤める。
1868ロンドンにて、アントン・ルービンシュタイン、ピアッティとトリオ組。 ペテルブルグ音楽院ヴァイオリン教授(ヴィニャフスキーの後任)
〜1917帝立バレエ団ソロヴァイオリン奏者。ロシア音楽協会弦楽四重奏団 第一バイオリン奏者及び同協会交響楽団指揮者
1918米国へ旅行。ニューヨークで初演奏。カーティス音楽院で教鞭、 シカゴ大學特別講義担当。ニューヨーク在。
著名な弟子エルマン、ジンバリスト、ハイフェッツ、ミルシュテイン
献呈された曲チャイコフスキー、グラズノフ、タニェエフなどより
著 書[Violin playing as I teach it](1921 New York)
[Violin Masterworks and their interpretation](1925 New York)
[My long life in music](1923 New York)
「ジュリアード音楽学校」(一名、ジュリアード音楽院) Julliard School
ニューヨークにある米国の代表的な音楽学校
(注)関連音楽辞典類には、「音楽学校」と訳されているが、 「音楽院」の方が一般的で、用語的にも格調の高さが感じられる。
1905「音楽芸術院 Institute of Music Art」を母体として、 ダムロッシュ設立。
1920富裕綿花商ジュリアード遺産を財源として、米国音楽文化振興の為の 財団ジュリアード音楽基金設立。
1924Julliard Graduate School創設。
1926基金の運営下に於かれた音楽学校は、Graduate Schoolを吸収して、 ジュリアード音楽学校 Julliard School of Music 発足
1969正式名称ジュリアード学校Julliard Schoolとなる。 舞踊、歌劇部門を含む総合芸術大学の性格を有する。
歴代校長名アースキン、ハチェソン、W。シューマン、メニン、ポリシ、ほか。

                                     (以   上)


平成14年3月25日  ***編集責任・錦生如雪***


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